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農業と農薬の歴史 その1

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◇農薬ネットの記事より転載しています。-農薬ネットへのリンクはリンク集にあります。◇

人間が農業をはじめると同時に、人間と病虫害との関係がはじまりました。先人達の苦労の歴史を振り返り、現在の農薬がどの様にして生まれてきたかを知るのは大変重要なことです。このページでは時代時代を象徴する出来事を通じて農薬の歴史を紹介します。日本を中心に農業文化の発展について話を進めていきます。

約1万年前・・・農業の始まり

それまで狩猟・採取に頼っていた人間が、なぜ面倒な農業を始めたのかについては色々な説があります。人口が増えてきて食料が不足してきたためであるという説が有力です。ちょうどこの頃に氷河期が少し戻ってきて、千年ぐらいの間地球が寒冷化したことが知られており、狩猟・採取が困難になったとも言われています。

約5000年前・・・農業文化の発展

中国で農業の神様として祭られている「神農」。すき・くわを考案し、百草をなめて、食物・毒・薬となる草を見いだしたと言われています。実在の人物ではありませんが、それに近いことをした人がいたか、多くの人の業績を一人の神にまとめあげたと考えられます。また、中国最初の王朝である「夏(か)」を作った「禹(う)」という人物は治水に成功して民衆の尊敬を集め、これが帝国建設のきっかけになりました。 日本で農業がはじまったのも、この頃ではないかと考えられています。ソバなどが主だったようです。

約3000年前・・・農薬の出現

ローマ時代に麦の種をワインに浸したり、植物の灰や硫黄を畑にまくことなどが行われた記録があります。おそらく、おまじないとして行われたのではないかと思います。効果の程はわかりませんが、現代の農薬に通じるところもあるので何らかの効果はあったのではないでしょうか?

約2300年前・・・日本で水稲栽培はじまる

この頃は病害、雑草は十分に認識されていなくて、もっぱら猪・鹿・ねずみなどの獣やイナゴなどの大型の昆虫が害を及ぼすと考えられていました。銅鐸や男根型をした石棒などを祭りに用いて、害虫獣の退散を祈祷したと考えられています。

西暦600年頃・・・キリスト教の台頭

ヨーロッパでは害虫獣を宗教裁判にかけて断罪した記録が残っています。全ての生物に注がれる神の慈愛を受ける資格がないとして破門の処置がとられています。生け贄や魔女裁判なども害虫獣の退散の目的で盛んに行われたようです。これらは18世紀頃まで続きました。

平安時代・・・日本初の農薬?

西暦807年に書かれた「古語拾遺」という本に害虫に関する記載があります。当時の日本の稲作ではウンカとアワヨトウが主な害虫だったようです。伊勢神宮での祈祷により、虫が蝶に変化して飛び去り(アワヨトウが成虫になったのだろう)またハチにより殺されたことを喜んだ、という文があります。当時から有用な天敵としてハチやヘビ(ねずみを食べる)は認識されていたようです。また山椒や塩などを混ぜ合わせた物をまけという記載もあり、日本で最初の農薬とも言えそうですが、効果は全く無かったはずです。蚊帳が使われ始めたのもこの頃です。

鎌倉時代・・・肥料の発見

関東地方で糞尿を田にまくことが行われはじめたと言われています。肥料の考え方がはじめて生まれました。米がたくさん取れるようになり、関東武士は力をつけ、鎌倉幕府の開設へとつながったという説もあります。人糞を肥料として用いたのは日本独自の文化で、他国では例のないことだそうです。除草という考えもこの頃からはじまったようです。

西暦(以下省略)1600年・・・家伝殺虫散

現在の島根県に住んでいた松田内記という人物が「家伝殺虫散」というものを発明し、文書に残しています。これが記録に残っている日本最古の農薬です。トリカブトや樟脳など五種類の薬品を混合した物で、ウンカや猪に効果があるとされています。この人物は観察眼に長けていたようで、ウンカの生態などについて現在のレベルで見ても正確な記載を行っています。

1685年・・・生類憐れみの令と陶山訥庵

江戸の将軍「徳川綱吉」は天下の悪法「生類憐れみの令」を出しました。農村で猪や鹿を殺すことも禁じましたが、実際には寛大な処置がとられました。害虫に対してはおとがめがなかったそうです。そんなご時世に対馬に生まれた「陶山訥庵」という人物は、猪に悩む農民を救おうと猪の全滅計画を実行しました。これは対馬を9区画に石垣で区切って、順次その中の猪を柵などで追い込んで全滅させるという大事業でした。9年間かけてついに対馬の猪は全滅しました。その数は8万頭に上ったと記録されています。それ以来、対馬からは猪がいなくなり農民は安心して農作業に励んだと言います。しかし、陶山訥庵は生類憐れみの令に反すると厳しく批判され、役職を解かれるに至りました。

1697年・・・農業全書と宮崎安貞

この年、福岡在住の「宮崎安貞」は農業全書全10巻を完成させました。これは、最初にして最大の農業指南書であり、大きな反響がありました。その中に農薬のことも記載されており、タバコの煮汁や硫黄を燃やした煙など効果が十分期待できる物も含まれています。しかし、実際にどの程度実行されたのかはわかりません。

1732年・・・享保大飢饉

西日本を中心にウンカが大発生し、70%以上の減収となり、100万人以上が餓死したと推定されています。これ以降、サツマイモの栽培が推奨されました。その後も1782年の天明大飢饉、1833年の天保大飢饉があり(共に冷害とイモチ病が原因)江戸幕府の体制に大きな影響を与えました。この頃も防除法は祈祷が主でした。

1750年ごろ・・・注油法の発明

たんぼに鯨油など油をまくと、水面に広がり油膜を作ります。そこに虫が落ちると油に搦まれて飛び上がることが出来なくなり、死んでしまいます。このことが各地で知られるようになり、日本で初めて真に有効な害虫防除が出来るようになりました。現在でも油を果樹などにかけて虫を殺すことは行われています。江戸時代には多くの薬品が使われた記録がありますが、結局、注油法以外に有効な方法は見いだされなかったようです。また、注油法もあくまで一部地域で断片的に行われたもので、全国的に見ると相変わらず祈祷が主でした。

1845年・・・アイルランド大飢饉とアメリカ

この年、ジャガイモ疫病がヨーロッパ全土に広がり、イギリスの北にあるアイルランドはジャガイモを主食としていたため、人口800万人の内100万人以上の餓死者を出し、さらに多くの移住者も出し、人口が半減してしまいました。この時新大陸(アメリカ)に移住した者100万人。これが、アメリカ発展の基礎にもなりました。人々の、病虫害をなんとかしたい・・という思いがいっそう高まった事件でした。

1873年・・・植物検疫のはじまり

この年ドイツで世界初の検疫の法律が誕生しています。これは、アメリカからブドウの樹を輸入したフランスで、アメリカにしかいなかった虫が発生し、10年後にはブドウの収穫が1/3になるという事件があったことによります。その後、各国で同様な法律が誕生しています。日本でも明治維新以降、続々と渡来害虫が侵入し大きな被害をもたらせました。1914年に日本でも植物検疫所が発足し、害虫対策が本格的にスタートしました。外国から天敵を輸入することから始まり、大きな成果を残しました。

1913年・・・リービッヒとハーバー・ボッシュ法

植物が成長するために必要な物はなんなのか?これは長年にわたる人類の疑問でした。この答えが食料生産の増大につながるからです。1840年、ドイツのリービッヒは炭酸ガス、水と、チッ素、リン、カリが重要であることを発見しました。ここから人工肥料の考え方がスタートしました。しかし、リンとカリは鉱物資源として得られましたが、チッ素はなかなか得ることが出来ず、肥料は不十分な物でした。その後、同じくドイツのBASF社はハーバー・ボッシュ法という画期的なアンモニア合成法を開発し、チッ素肥料を安価で大量に得ることに成功しました。ここから、多収穫の近代農業がはじまり、いよいよ、病害虫と人間の戦いも本格化することになりました。また、化学合成物が大量に農業に用いられるという新しい図式が生まれました。


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