聞いて集めた昔の話 第34回
(平成19年6月)
今月は越本の「光福山円通院音昌寺」についてのおはなしです。
初祖は「寂額妙音律師」と云う天台僧であったそうです。その後、字大円に移転し、「腰元山恩正寺」と改め、移転後は真言派の「創白牛霊明法師」が開いたとされる。
更に70年程経過して、小溝の観音地に移り、文亀元年(1501年)になり浄土宗の「仏海同船和尚」という僧が寺に入ったと云われる。当時、いろいろの事情により寺の場所や宗派が変わって来たが、文禄4年(1595年)になって、開基は越本の入沢和泉により、三州岡崎産の僧「無庵茂参禅師」(むあんもさんぜんじ海蔵寺三世)が来居し、慶長元年(1956年)現在地に中興建立されて、「光福山 音昌寺」となったそうです。
このように寺の盛衰、檀家の変遷はいつの時代にも有りますが、「音昌寺」においても「寺の盛衰」が続いた中で、慶長元年の開基のときには「入沢和泉」が、また 安永三年(1774年)第5世「仙中和尚」の時に「音昌寺」が焼失して、その再興には「笠原一族」を始め多くの村人がそれぞれに尽力したと古い書物に残されていました。
このように幾多の変歴を重ねた「音昌寺」も永い年月の風雨や雪により、「本堂」や「庫裡」の傷みひどくなり、檀家の協力によって平成5年11月に改修工事が行なわれて現在のお寺になりました。また、平成8年には曹洞宗派相続400年となり各地から同宗派の僧をはじめ、多くの檀家に参加を頂いて盛大に「記念法要」が行なわれたそうです。
毎年4月18日に同宗派の僧侶や寺幹事をはじめ檀家の人を招いて「大般若」の供養を行なっているが、この「大般若」には数年前から片品村北保育園の協力を頂いているそうですが、今年も小雨の降る寒い日でしたが園児は元気な声を出しながら参加しておりました。
この「大般若」の行事も、第13世「大くら嶺瑞和尚」(れいずい)の時代までは「お施餓鬼」(おせがき)と云う呼び方で行なわれていたが、檀家の協力で「大般若経」600巻(現在では600冊と云う)を揃えて頂いてからは「大般若」と改めて行なっているそうです。「大般若経」は毎年行なわれる「大般若」において、参加を頂いた和尚さんによって「600冊の転読」をする慣わしがあり、当日も和尚さんによって約500冊ほどの転読が行なわれました。昔の「大般若」には参加者全員に食事を出していたそうですが、現在では社会環境の変化や人手不足で準備が大変になり仕出し弁当が用意されていると云う。
また、「音昌寺」本堂前には大人等身大の「水子地蔵」が祭ってあり、この「水子地蔵」は昭和58年頃に「音昌寺」の梅花流の念仏申しをする会があり、第18世坂西恒喜住職の奥さんが梅花流の人達(約24名位)と相談して、いろいろの事情により「この世に生を受けることの出来なかった多くの水子」の供養をしたいと云う一念で檀家の役員に相談して了解を得て、資金作りのために廃品回収(ダンボールなど)を行なって建立資金を集めて、約400万円ほどで念願の「水子地蔵」を建立し、不幸にしてこの世に生を受けられなかった多くの水子の供養を続けているそうです。
このように幾多の変歴も歴代の住職と多くの檀家に守られて来た「音昌寺」をこれからも檀家の人に協力を頂きながら後世に伝えたいと坂西恒喜住職夫妻は話しをしてくれました。ご協力を頂まして誠に有難う御座いました。