聞いて集めた昔の話 第17回

東小川の筧耕亭先生と義人須藤主税

(平成17年11月)

 筧耕亭(かけいこうてい)先生は大阪の今福の生まれで、早くから仏門に入り京都の本願寺で修行をした役僧であったが諸国行脚に出て、その道筋で片品村東小川に来たときに村人からその人徳を慕われて、子弟の教育を懇願(こんがん)され、文政4年(西暦1821年)に私塾を開き、「医国堂」(いこくどう)と名付けて子弟の指導に勤めたそうです。
 筧耕亭先生には故郷に1男1女があり、その男子が大和国(現在の奈良県)の聖徳宗本山法隆寺で修行の後、一寺の住職になったので筧耕亭先生は大和の国に帰られたが、2年後に子供が病死したので再び片品村に来村し、学問塾(帰厚堂)を開いて地元を始め近隣の多く青年達の教育に始めたそうです。前後30年に渡り教育に力を尽くされ、嘉永4年7月22日(西暦1851年)帰厚堂にてその生涯を閉じたそうです。村人により塾跡(現在の食堂和八のところ)に埋葬されたが、耕亭先生の位牌は最近になって上小川の新井 昇氏宅にあることが確認されたそうです。又、耕亭先生の子孫は現在、土出の深見家(故泰司氏)、東小川の新井家(昇氏)、(一男氏)、前橋市の星野家(故健太郎氏)にそれぞれに受け継がれているそうです。  
 現在、供養されている「石碑」は昭和27年11月に前橋市に在住の耕亭先生の曾孫である故星野健太郎氏の依頼で上小川の新井一男氏が土地交渉他を行ったそうです。耕亭先生の死後も村人の手で保存されていたが、火災により建物が焼失したが村人の力で「扁額と教科書、四書五経」などは焼失を逃れて(旧東小川分校)に保管されていると云う。この帰厚堂の扁額は「大学頭、林道慶」(だいがくのかみ、はやしどうけい)と云う徳川幕府の学問上の最高権威者の書でこのような格式の高い人から授けられることは耕亭先生の学識の深さを知ることが出来ると云われており、欅(けやき)の1枚板で作られた物でした。
 須藤主税と云う人は天和元年(西暦1681年)頃の東小川村の村役人で(下小川出身)、沼田藩主真田伊賀守が増税のため拡大検地を命じ実行にあたった検地役人の横暴な行為に耐えがたく、遂いにその上役人を斬ってしまったそうです。この時代にはどんな理由があっても上役人を斬れば、重罪は免れず天和2年(西暦1682年)に菅沼~東小川街道の通称(めんざか)で処刑され、家屋敷は欠所となり一門も相応の処分があったそうで、処刑された付近には首なし地蔵と供養と思われる石塔がありました。
 また、須藤主税の墓石が東小川の「龍滄院」裏の杉林の中にありましたが、誰が建之したかは不明でこの人の命日は天和2年11月23日とありました。同じ頃に月夜野の杉木茂左衛門が伊賀守の悪政から農民を救うためにお上に直訴して磔(はりつけ)の刑にされました。
 須藤主税や杉木茂左衛門の命をかけた抗議により、真田伊賀守は改易となり東入り一円は幕府の御料所(天領)となり、貞享元年(西暦1683年)~貞享3年にかけて再検地が行われて、沼田城内の石高は14万4千石から6万5千石になったそうです。
 この2人の顕彰碑が「龍滄院」西側のところに東小川の人をはじめ多く人達の寄付によって平成15年5月に建立されています。この話に取材には新井一男さん、金子伝治さん、宮田勝さん、大久保勝美さんに大変ご協力を頂まして有難う御座いました。

 

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