聞いて集めた昔の話 第16回

山崎にある浄業山善福寺

(平成17年10月)

 善福寺は元歴元年(西暦1184年)に阿甫上人呑空(あほしょうにんどんくう)大和尚によって開山されたと伝えられている。その後、飢饉(ききん)などで廃寺となったが延宝(えんほう)元年(西暦1673年)に乗然上人(じょうぜんしょうにん)によって再建され、寛政(かんせい)10年(西暦1798年)に存誉貞円(ぞんよていえん)大和尚により、現在地(上屋敷)に移転再建されて現在に至ると云う。
 善福寺の総本山は京都の東山にある知恩院で宗派は浄土宗で、御本尊は1尺8寸ほどの阿弥陀如来様の座像(ざぞう)が安置されていました。再建前の寺は星野 昭(故人)宅前(現在の戸主は星野 満氏)の一段低い場所(下屋敷)にあったそうで、その場所には現在も花咲村の初代領主の星野玄蕃の分骨墓があり、地元の人達によって保存と供養がされていました。(元の墓は鍛冶屋の星野 進宅の東側にあると伝えられていますが確認は出来ませんでした。)現在では農道としか使用されてない移転前の善福寺へ通じる旧道の三本辻(現在、武藤邦秀さんが耕作している田の土手)には、道祖神が草むらの中にひっそりと有りましたが、正月のどんどん焼きにはお参りをしているそうです。
又、善福寺の本堂は明治5年に国が学制が頒布(はんぷ)されて、明治6年に東小川小学校の開設に伴い明治7年3月7日に花咲分校として開校し、同年8月に花咲小学校として独立し、初代教員として現在の沼田市坊新田にある「了源寺」(りょうげんじ))の住職武藤大忠(だいちゅう)和尚が善福寺の住職を兼務しながら来ていたそうです。  
 明治29年8月29日に新しい萱葺校舎が花咲字越沢1982番地に(横坂 操氏宅入口の左側のところ)出来るまで20数年に亘り善福寺学校として多くの子供達の学舎(まなびや)として使われたそうです。善福寺の歴代住職については、確かな記録が残っていないために武藤大忠和尚の以前は途中が不明のところが有るそうです。昭和7年に沼田より武藤俊応(しゅんのう)和尚が入山して、昭和47年まで住職として努められて、同年に現在の住職、武藤邦秀(ほうしゅう)氏が歴代20世として住職を継承されたそうです。  
 現在のように世の中の変化が速く大変な時代であるが、善福寺では片品南小学校と連携して毎年4月下旬に校内の2年~4年生の生徒が善福寺の本堂に集まって、邦秀(ほうしゅん)住職から善福寺の「歴史」や「善福寺学校の由来」などの話を聞いたり、質問をする恒例の行事をしたり、地域の檀家と親睦を図りながら善福寺を守って行きたいと邦秀(ほうしゅう)住職は話してくれました。

 

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