聞いて集めた昔の話 第37回

「禹王の碑」と「上河原の大石」

(平成19年9月)

 今月は古仲の「禹王の碑」と「上河原の大石」についてのおはなしです。
 「禹王の碑」は旧401号線の古仲橋を渡り、50m程先を片品川沿いへ100m位入った河川敷きの大きな岩石の上にありました。この「禹王の碑」は大変珍しくて、現在 利根沼田地区で建立が確認されているのは古仲と利根町平川のお不動様の境内の2ケ所位だそうです。
 「禹王」と云う人物は、中国の伝説に伝えられている「聖王」(治水事業に優れた功績のあった王様のこと)の一人で、若い頃に父のあとをつぎ、修めた学問と経験を積んだ技術により治水事業に優れた功績を多く残したので、当時の王様から治水事業で生まれた国(土地)授かり帝位を譲られたそうです。この様にして、「禹王」は治水の神として中国や日本でも知られているそうです。
古仲でも昔は現在のように砂防ダムなどが無い時代には、大雨が降る度に片品川に大水が出て、沿岸の田畑が水に浸かったり、流失したりする被害が毎年のようにあったそうです。
 このような状況が続く中で、古仲の星野誉一郎という人が村の人々と相談して、「昔、支那の「禹王」という人は、大変 治水事業に功績のあったの話を聞いて、わが村でもこれにちなんで「禹王」をまつり、その碑を立てたらと相談をして一同の賛同が得られたので、誉一郎はわざわざ会津若松までいって、会津藩の聖堂(孔子を祭る藩校)を訪ねて、わけを話して「碑文」を依頼したと云う。
 聖堂の学者(親章)が気持ち良く引き受けてくれ、撰文の上、蒙書(てんしょ)で書いて頂いたものを持ち帰り、石屋に頼んで作ったのがこの塔で、明治7年4月に出来上がったそうです。
 村人の悲願にもかかわらず、その後もその碑が埋まるほどの洪水があったそうですが、近年になって上流に幾つもの砂防ダムの建設や護岸整備等の治水事業のお陰で洪水の被害が少なくなり、最近ではほとんど被害にあった話しなどは聞かれないそうです。 碑の表面には、蒙字で「禹王」の治水事業に関する実施方法や数多くの功績が記載されていると言われるが判読が出来ませんでした。
 今年、92歳になる星野関次さんは、子供の頃を思い出しながら「禹王の碑」付近の片品川は普段は緩やかな流れをしており、夏になると毎日子供たちが水浴びをしたりして大変賑やかだったと話してくれました。また、古仲には「上河原の大石」(禹王の碑近く)と「下河原の大石」(現在の学校橋の上流付近)にとても大きな石があって、特に上河原の大石は子供達の格好の遊び場だったそうです。
 この二ツの大石は大洪水の度に少しずつ川下に押し流されて、最初の護岸整備のときに障害になるために、小さく割られ片付けられたと云う。この様にして段々と昔の情景が忘れられるのが寂しいと星野前十郎さんは話をしてくれました。現在のように砂防ダムも出来たり、二度目の護岸整備が行なわれて水害の心配がなくなり、「禹王の碑」の存在が忘れられるように成りましたが、先祖の人達が「田畑を守り、地域の安全」を「神様」祈願して建立した遺跡「禹王の碑」を忘れないように後世に伝えたいと、若い頃を思い出しながら関次さんと前十郎さんは語ってくれました。

 

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