聞いて集めた昔の話 第36回

戸倉戦争と三烈士

(平成19年8月)

 今月は明治維新の「戸倉戦争と三烈士」についてのおはなしです。
 260年余続いた徳川時代も第十五代将軍徳川慶喜の大政奉還により、新しい日本をつくりたいと志す長州藩や薩摩藩を中心とした官軍と、まだ旧幕府を存続したい願う幕府軍の戦いが各地で行なわれて来ました。
 片品村においても 明治元年(西暦1868年)5月に戸倉にて官軍と会津兵(賊軍とも云う)とが衝突し、戦いが行なわれたのが「戸倉戦争」と云われています。
 この戦争では、古仲の大円寺の本営を置いた官軍は戸倉に兵士を派遣し、戸倉村の奥にある十二神社近くの林中に砲陣を設けて賊軍の侵入に備えていたが、5月21日に幕臣大鳥圭介の率いる約300人の軍勢との銃撃戦となり防戦したが、遂に敗れて土出村古仲の本営方面に敗退したそうです。
 この戦いで、官軍に従軍した二人の兵士が戦死し、一人は足利藩の藩士で「今井弁輔兼章」(べんすけかねあき)と言い、その墓は戸倉村字小松の「円通庵」(現在の富士見旅館の前)に埋葬されて、墓碑の表面には漢文で「鳴呼男児之事畢矣」(ああだんしのことおわる)とあり、裏面には「慶応四年歳次五月廿一日戦士」、享年廿有一戸と有りました。
 もう一人は、吉井藩の藩士で伊東長三郎と云う人で、旧会津街道の戸倉村千の橋と云う橋のたもとで、高い柳の木に登り敵状を偵察中に狙撃されて戦士されたそうです。墓は古仲の「大円寺」に在り、高さ二尺四寸、巾一尺四寸程の自然石で表面には「吉井藩伊東長三郎藤原長常の墓、慶応戍辰四龍集五月廿一日戦士、行年二十七歳」と刻まれて在りました。
 この墓石は木造の建物の中に在りましたが、以前の建物が傷んだために多くの檀家の人が寄付を出し合って、平成5年12月に現在の建物が出来たそうです。
 また、「三烈士」の墓は須賀川の北端の小立沢の南側に山裾にある墓地の正面の位置に屋代由平、櫻正坊隆邦、羽倉鋼三郎の墓と記念碑がありました。地元では「三烈士の墓」または「赤羽様」と呼ばれて永い間、供養されてきたそうです。
 戸倉戦争があってから、二ケ月後の8月8日頃に米沢藩士雲井龍雄は会津藩士原 直鉄、幕臣羽倉鋼三郎、元前橋藩士屋代由平、日光山の僧櫻正坊隆邦ら7人と共に一行8人で、戸倉村の関所を越えて須賀川村の星野福造方(現在の星野成一氏)に泊り、約十日間滞在している中で、その間において追貝村海蔵寺に滞在する「軍監代」豊永貫一郎に面談を申込みをしたが、沼田滞在中の軍監姉川栄造は「速かに討ち取るべし」の指示で、雲井一行をおびき出して途中で討ちとる計画を立てた。龍雄他4人が追貝へ向かう途中立沢付近で目印を発見し、官軍に何か異図(いと)あると気づいて一行は遁逃を企てた。雲井龍雄等を討ち漏らした官軍は、その日(8月18日)の夕刻に須賀川村星野彌平次方(現在の星野りきさん)に移っていた3人を襲撃し、羽倉は直ちに抜刀し応戦したが庭先の厩堆肥積場で切り合いの上戦死し、黄山寺和尚櫻正坊と屋代由平もこの戦いで戦死、3人は七日間の梟首(さらしくび)の後、同村に葬られたと云う。
 明治22年の新憲法発布された時の「大赦」により賊軍の「汚名」も雪がれたので、土地の人々の「篤志」により明治29年に三人の墓石が建立されていました。更に昭和9年9月に至り大竹梅吉氏の主唱により多くの人達の賛助によって仙台石の「大豊碑」が建立されたそうです。萩原平人さん大久保勝美先生には大変ご協力を頂きまして誠に有難う御座いました。

 

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