幡谷の風穴

(平成18年9月号)

幡谷の風穴は幡谷部落の南西方向に行った構造改善事業で基盤整備をした地区の右側の山の中に3ケ所ありました。
 最初に整備されたのは、大正8年頃に幡谷部落の人達が人足によって行われて、その後、大正9年3月(西暦1920年)に幡谷風穴(片品風穴とも言われた)合資会社(代表者、井上孫三郎氏、井上佐五郎氏)、が蚕種貯蔵及び催青を目的に創設され、翌年の大正10年11月(西暦1921年)には幡谷風穴株式会社(代表者、田辺要次郎氏、三浦静一氏)が蚕種貯蔵を目的に創立されたと片品村誌にはありました。
 特に幡谷風穴株式会社の創立は大正4年の「今上陛下(大正天皇)御即位御大礼記念」事業として始められて、もっぱら蚕種の「生種」を貯蔵を業として、その貯蔵能率は12万枚にも及んで、片品村の養蚕振興のために多いに活用されたそうです。風穴で貯蔵された「生種」は村内にある数カ所の催青所(さいせいじょ)で催青された後に各農家や郡内の養蚕農家に配布されたと云う。
 片品村誌によれば、本村の養蚕は古くから行われており、明治42年頃には利根郡内で3番目の収繭量をあげたそうで、永い間、農家の主産業として養蚕経営がおこなわれて、昭和40年代後半に大型野菜の生産がされる頃までは、代表的な産業として農家の大事な収入源だったと伝えられています。養蚕の普及に伴い蚕種会社ができて大きな貯蔵施設が設置されて蚕種の販売される様になったため、収納規模や催青施設が小規模のため風穴の利用が少なくなったので、幡谷風穴の会社は解散されて施設は地権者に返されたそうです。
 その後は、一部の農家では風穴の中は温度が一定(4℃位)に保たれて涼しいので、「ほり」(米などに出る虫のこと)の発生を防ぐために「米や小豆」などの穀物の貯蔵場所として利用する人がいたと云う。
 昭和52年頃には、千明 圭氏、桑原弘昌氏、三浦信次氏などが村当局や利根普及所などの指導を受けて、構造改善事業で風穴の改良整備が行われて、「グラジオラスの球根貯蔵や青果トマトの低温貯蔵」などに再利用されたが大きな成果は得られなかったそうです。
 現在の風穴周辺は、昭和43年頃にほ場整備事業で基盤整備がされ、稲作を中心に栽培が行われて来たそうですが、農業情勢の変化に伴って現在では稲作栽培が少なくなって、青果トマト、花(アジサイ)など、多種の作物が栽培されていました。まだ 養蚕が盛んなころに養蚕経営に励んでいた井上弘己さんや、風穴の再利用に今は亡き仲間と意欲を燃やした千明 圭さんの2人は、時代の流れと共に片品村の養蚕最盛期に栄えた自然の恵み「風穴」が忘れられることは淋しいと昔を思い出しながら話してくれました。
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