穴沢に伝わる催事(氏神様)

(平成16年7月号)

穴沢部落には、御霊様(ごりょうさま)(御霊宮、五霊宮)と云う氏神様があり古来より住民の信仰が厚く親しまれてきたお宮です。
 その起源は明らかではないが、御霊宮の始まりは貞観5年5月20日(西暦863年)に京都の神泉苑で御霊会が開かれたのが始まりで祭神は崇道天皇(光仁天皇の第二王子、早良親王)であったが後に上御霊宮、下御霊宮が建立され両社併せて十柱が祭神となっている。 天慶三年(西暦940年)に鎌倉の村岡五郎良文が京都より勧請し戦勝を祈願したのが鎌倉御霊宮で、その時の祭神は崇道天皇であったが後から後三年の役で活躍した鎌倉の権五郎景政が加えられ、更に執権、北条時頼の命により葛原親王、高見王、高望王を加えられて五柱を祭っているので五霊宮と云っている。穴沢の御霊宮も石の額に五霊大明神とあるので先人達が鎌倉から勧請して創建したものと思われる。片品村誌には明和二年(西暦1765年)穴沢御霊に鳥居を建立とあるので、それ以前に出来たものと推測される。
 昔から春、秋のお祭り及び元旦には住民全員が参拝し、組頭が御神酒や甘酒、赤飯、子供には菓子や飴など配って盛大に祝ったものである。また、山車(ダシ)も出て村中を引き廻したと云うが、今では赤飯だけをくれて集会所で御神酒を飲み乍ら部落をあげてお祭りを祝っている。 鎌倉の御霊宮が戦勝を祈願のため勧請された故か、日清、日露の戦争の時に出征兵士は穴沢の御霊宮の神前に於いて武運長久を祈願したことが古文書に記されている。
 鎌倉御霊宮に纏わる話しで鎌倉権五郎景政は源義家に従い後三年の役の戦いに十六才で出陣し、右目を敵の弓矢に射抜かれたが矢の刺さったまま敵を倒し自陣に戻り力つきて倒れた。味方の三浦為次が矢を抜いてやろうと土足で権五郎の顔に乗ったので、権五郎は弓矢に当たって死ぬのは武士の本望だが顔を土足で踏まれるのは武士の恥と言って切りかかったと云う豪傑であり、為次は詫びた上、膝で顔を押さえて矢を抜いたと云う。(奥州後三年記より)権五郎が里いもの葉に足をすべらし胡麻で目をついたと云う伝説が語られているが、おそらく後からできた話しと思われる。
 穴沢部落にはそれぞれに、宮田氏は(八幡宮)狩野氏は(熊野宮)須藤氏は(稲荷大明神)星野氏は(不動明神)と氏神があり、御霊様とあわせてお参りをしていたが時代の移り代わりと共に信仰する気持ちが少なくなったと宮田 勝さんは話してくれました。

 


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