聞いて集めた昔の話 第31回

登戸の十一面観音

(平成19年2月)

 今月は登戸部落の十一面観音についてのおはなしです。
 登戸部落の住民センターに背丈1mほどの木彫りの十一面観音像が安置してありましたが、昔は観音堂に安置してあって、村の人々はこの観音堂を集いの場として何かにつけて利用し、観音像を信仰したそうです。現在の観音像は永い間の焚火の煤で黒光りをしており、多くの人達に信仰されていた様子が伺えました。
 御本尊は、伝承によれば「大宝元年に京都出身の行基上人(ぎょうきしょうにん)がこの地に来たおりに、十一面観音像を彫刻し、花咲石のかたわらに安置し、人々の仏果を祈って」作られたと伝えられているが正確な作成時期は不明であるが、その彫りの特徴から鎌倉時代のものと推測されるそうです。
 また、この頃は山岳修行の盛んな時期であったため、行基上人は「霊峰武尊山」に山岳修験道を造り、武尊山頂を山岳修行の場所として開いた上人としても伝えられており、そのために多くの修験者がこの地に来村したそうです。その後に武尊山頂に「日本武尊命」が奉られて多くの修行者に信仰されたそうです。
 その山岳修験道も現在では登山道として多くの登山者に利用されており、毎年、地元集落の人達が交代で登山道の整備が行われているそうです。
 十一面観世音は、その名のとおり、十一の顔をもつ観音様で村内では登戸以外にはない、とても貴重な仏像だそうです。前の三面は「慈悲」の相をあらわし、左の三面は「瞋怒の相」(怒り)をあらわし、右の三面は「白牙上出」(くがじょうしつ)笑いの相をあらわし、後の一面は「暴悪大笑」(ぼうあくだいしょう)の相をあらわし、頂上の仏面は仏果(仏の力で救われた成果)を表すと云われていますが、現在の仏像には十一面の顔は有りませんでした。また、住民センターには十一面観音像を作ったといわれる、「行基上人」の菩薩像が祀ってありました。1mほどの木彫りの立像で、この仏像も煤で光沢の出ており、永い年月を経過ことが感じられました。
 この観音像は、「利根観音巡り三十三札所」の中で第30番目の札所にあたり、片品村にある四ツの札所で最初の札所で、昔は多くの札所巡りの人が訪れたそうです。住民センターの入口には大きな自然石に御詠歌が「紫の雲たつ山を越え行けば、法に逢う地の石に花咲く」と歌われていました。
 「十一面観音像」は、昔の中国のお経「十一面神呪経」(しんじゅきょう)の教えの意味「慈悲」「瞋怒」「白牙上出」「暴悪大笑」「仏果」を表現して作られたと言われているそうです。
 この「観音様」の祭日は毎年4月18日で「ちゅうご様」の祭りと一緒に行われており、当日は部落役員の人が「甘酒や赤飯」をつくり、お参りに来た人たちに振舞い大変賑やかだったそうです。現在でもお祭りは続けられており、当日は「組長と壮健長」が赤飯とお菓子やジュースを供えてからお参りに来た人にくれるそうです。また、お祭りには年配の女の人達が観音堂に集まって観音様の「慈悲」により、救われた人の「霊」を供養するために「念仏」を申したそうで、この行事は現在でも続けられているそうです。
 現在では、平成13年に新築された「住民センター」に「十一面観音像」と「行基菩薩」が安置されていましたが、今の社会環境の中で年の経過とともに忘れてしまうのが寂しいと藤井和夫、とらさん夫妻は話しをしてくれました。ご協力有難う御座いました。

 

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