聞いて集めた昔の話 第22回
(平成18年5月)
今月は上幡谷に伝承されてる木仏様についてのおはなしです。
上幡谷地区の中ほどに県道の右側に小さな祠があり、その中に「木仏様」は奉って有りました。この「木仏様」についての云われは今からおよそ260年程前に始まるそうです。この地方で何年も日照りが続いて穀物がとれず大飢饉に見舞われたそうです。村人達はこの様な飢饉の場合に備えて、蓄えておいた稗(ひえ)などを食べていたが稗もなくなり、山に出て食べられそうな木の根や草の根などを掘って食べて来たが、飢饉が長く続いたため餓死する人も多く出たので、村人は雨が降り穀物が収穫できます様にと神様や仏様に祈ったそうです。
やがて、恵みの雨が降ったが7日間も続くような大雨で大洪水となり、塗川に掛かる橋や川沿いの田畑が流されたそうです。ようやく雨も上がり洪水が引けた川を見て、あまりの被害の大きさに村人達は只呆然としていたそうです。
洪水の引けた夜から川岸に住む若い夫婦が、夜中に川の方から女の人のすすり泣くような声や子供の産声が毎晩聞こえる様になったと云う。この話がたちまち村中の評判となり、不思議に思った村人が総出で川辺を調べると、洪水でおし倒された笹藪の中から約2尺位の人間の形をした「木ぼっこ」(流木)が見つかったと云う。村人はこれは仏様が洪水に流されて体中に傷を負い姿が変わったが、この原形は法衣(ほうい)を着た僧に思われて、この姿を村人に知らせる為に泣き声を若い夫婦に伝えたのであろうと察し、村人達は「木仏様」と云う敬語で小さなお堂を建て祭ったそうです。
不思議なことにそれからは夜中の泣き声もなくなり、結婚してから子宝に恵まれかった若い夫婦に元気な男の子が授かったと云う。それからは村人を始め隣村の人びとからも厚い信仰を受け、特に子供に恵まれない夫婦は信仰したそうです。「木仏様」は昭和の時代になってからも、短い時でも一週間以上、長い時は三年、四年以上、留守(持って行かれる)になることがあったそうです。留守になっても、いつの間にかきれいな着物を着て帰っているので不思議がられたと云う。
「木仏様」の祭りは旧暦の3月8日で7日の夜は役員の家で宵祭りをして、当日は役員の人が各家から酒米を集め「甘酒」を作りお祭りに来た人に振るまい、女の人は役員の家(現在は集会所)で念仏をあげたそうです。
昔は花咲への街道沿いのため、村外の人達も甘酒を頂いて休んで行く人もいたと云う。部落の先人達から語り継がれた「木仏様」の行事は、これからも部落の人達と大事に守り続けて行きたいと千明貞夫、富江さん夫妻は話してくれました。