聞いて集めた昔の話 第19回

金嶺山大園寺と観音堂

(平成18年1月)

 今月は土出にある金嶺山(きんれいざん)大園寺と観音堂についてのおはなしです。
 大園寺の創立は、保元3年(西暦1158年)に大円国師によって開山され宗派は真言宗と伝えられており、その後、正中2年(西暦1325年)に尾瀬兵衛が朝廷の争いに関連し北条範貞に討たれ、その縁で当時の住職も罪に問われて廃寺になったと片品村史等に伝承されていました。
 永禄3年(西暦1560年)土出古仲の住人星野義基館林入道が開基となる。天正元年(西暦1573年)海蔵寺二世巨山亭呑和尚(こざんきょうどん)の中興により曹洞宗、金嶺山大園寺となって御本尊の虚空蔵菩薩が安置してありました。
 大円寺には菊の御紋が本堂の水引や屋根などの数カ所に使用されており、昔 土井出庄が朝廷の御用地でもあり、大園寺が安楽寿院の分院であったために菊の御紋を使うことを許されたのではないかと竹内芳昭(ほうしょう)住職は話してくれました。
 慶応4年(西暦1868年)明治維新の時、大園寺は会津征伐のための官軍(先鋒隊)の本陣として「大監察使府、軍監柴山軍平寓」掛札が掛けられて5月9日に官軍が到着し幕府軍との戦闘に備えたそうです。また、本堂の別間には官軍の武士が書いたと言われる「短歌」が額に入って保存されてました。
 5月21日に戸倉村奥の十二神社付近で戸倉戦争が始まりこの戦争で二人の戦死者が出たそうです。一人は足利藩士の今井弁輔と云う人で、墓が戸倉の富士見旅館の前にありました。もう一人の戦死者は吉井藩士の伊東長三郎といい、戸倉の栓ノ橋付近で偵察中に戦死して墓は大園寺にあり、高さ二尺4寸巾一尺4寸程の自然石で造られていました。また、大園寺本堂の南側には昭和29年12月に建立された戦没者の供養塔があり、土出、戸倉地区で日清、日露、大東亜戦争等で戦死された戦没者の霊が祭られており、毎年4月28日の大般若のときに一緒に供養が行われているが、お寺にこの様な供養塔があるのはめずらしいそうです。
 現在の本堂は約250年位前に新築されたといわれ、本堂の中の円柱は樹齢数百年は経過していると思われる栗の木でした。また、天井には十二支をはじめ花や動物の絵が描かれており、他にも県内で二ツしか無いと云われるほど大変貴重な「間引きの絵馬」が保存されており大変歴史の深いお寺だと思いました。
 昭和58年には本堂の屋根や外壁などの改築工事が、また、昭和63年には庫裏(くり)の新築工事が多くの檀家に寄付をお願いして行われたそうです。
 本堂の南側の一段と高いところに観音堂が建っており、ここの御本尊は観世音菩薩で利根三十三観音巡りの最終観音様だそうで、毎年4月18日に地域内の多くの信仰者がお参りに来るそうです。当日は当番の人が赤飯とお菓子を準備してお参りに来た人達に振舞われたり、念仏申しの人達がお堂に集まり念仏をあげて供養をしているそうです。観音堂の脇の石碑には「おぼろげの縁にはあらぬ大園寺、後の世かけてすくい給えば」と御詠歌が刻んでありました。
 この様に由緒があり貴重なお寺を檀家の人達と一緒に大事に守って行きたいと竹内芳昭(ほうしょう)住職は話してくれました。

 

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