聞いて集めた昔の話 第10回

越本字上而に伝わる音昌寺別院観音堂

(平成17年4月)

 観音堂は越本字上而地内の国道401号線から笠原四郎宅脇の参道を約80m位入ったところから、石段を126段登った平なとこに観音堂がありご本尊の聖観世音菩薩(仏に仕える菩薩であわれみの心をもって人びとをみちびく菩薩)立像(約90㎝位)を中央に、右側に不動明王、左側に阿弥陀様が祀ってあり、参道の入り口には常夜灯の灯籠があり、その正面中央には観世音菩薩入口としるされていました。
 観音堂の開基(かいき)については色々の説があるが、貞観(じょうかん)2年(西暦860年)小水所(こみぞ)と云う場所に九尺2間のお堂を造り、本尊(聖観世音菩薩)を祀ったと伝えられており、現在の場所(中田)に移設されたのは現在のお堂の前にある灯籠に刻んである文字から推測すると、享保16年2月(西暦1731年)と思われます。
 最初にお堂のあったと思われる所には、きれいな水が湧きでており昭和50年代ころまでは笠原芳門氏が田の用水として利用していましが、現在では桐ケ久保、大円地区の農業用水として利用されているそうです。
 この観音様は利根の三十三観音巡りの第三十二番目となっており、御詠歌があり「苦しみの、海をばやすく腰本の、なかだの水に、宿る月影」(仏教の教えから得る恵み、土地から得る恵みや、親 兄弟 社会の人達からの助けなどに感謝の気持ちをこめて)と歌われているそうです。
 お堂の屋根が長い間の雨や風雪で傷みがひどくなったので、多くの方々に寄付金をお願いしたりして上而組によって萱屋根の葺替えを行いましたが、その後、昭和51年に沼田市の屋根職人の高宮氏にお願いして金属板での葺替え工事が行われたそうです。又、お堂へ登る石段が長年の雨や雪で傷んだので上而部落の人が何年も積立てをして、平成9年に583万円を投じて修復工事を行ったので昔の様な石段になったと云う。
 観音様のお祭りは毎年4月9日と8月9日の夜におこなわれて、当日は音昌寺の住職(坂西恒喜さん)が来てお経をあげて頂いてから年輩の婦人達が念仏(ご先祖の供養や自分の未来のこと(極楽浄土)に行ける事を願って)をあげるそうです。お祭りには組内の人が持ち寄った糯米と小豆で当番の人が蒸かした赤飯や御神酒を参拝者に振る舞ったそうです。
 昔は各部落の念仏申しの人達が集まって念仏をあげていたが、現在では上而だけで念仏をあげる様になったと云う。念仏が終わると観音様に供えた菓子や赤飯、御神酒が振る舞われて、お祭りが盛り上がると当番の役員が道化唄を始めるが、歌詞が余りにも赤裸々のため文字に表現はできないと笠原キヌさんは話してくれました。
 私が取材に伺ったときは、まだ 石段には雪がありましたが笠原四郎さんと後藤正一さんは、年々お祭りに参拝する人が少なくなっているが、この伝統のあるお祭りを若い人達に引き継ぐ様にしたいと話をしてくれました。

 

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