聞いて集めた昔の話 第43回

山崎の法称寺

(平成20年3月)

 今月は山崎の法称寺(ほうしょうじ)についてのおはなしです。
 古い書物によれば、江戸期に利根郡花咲村には修験の道場として、武尊山福泉寺と花咲山法称寺の二ツの修行寺が存在したそうです。
 「法称寺」の本尊は「不動明王」で、法称寺の開基は文明2年(西暦1470年)3月に遷化(せんげ)した「法印秀泉」によってされたそうで、法称寺のお堂には法印秀泉と伝えられている木像が「不動明王」の脇にありました。また、一説によれば、「法称寺」は、かって千歳坊あるいは本性寺と称して修験の道場として、現在の南小学校付近にあったそうで、文明2年(西暦1470年)に現在の花咲字山崎下に移転したとの記述がありまた。
 修験者の道場として利用された「福泉寺」は、明治6年以来無住職となっていたそうですが、元法称寺住職の「星野道治」が明治10年に「福泉寺」の住職に入ったことで「法称寺」と合併し、現在の「武尊山法称寺」となったそうです。宗派は「天台宗」となっています。
 武尊山が山岳信仰としての開山は、寛政6年(西暦1794年)に「木食普寛」(もくじきふかん)と云う行者によってされたそうで、開山時に法称寺住職の義謙(よしかね)は普寛行者の弟子となり、同じく弟子の金子甚内とともに武尊山信仰のために尽くしたそうです。
 また、幕末世情騒然の時代の安政2年(西暦1855年)頃に「公武合体」による安定した政治を求めて論争があり、時の政権は公武安泰の祈願を「神仏」に託した。それに伴い法称寺も「公武安泰祈願」のため京へ呼ばれているそうで、その時に使用した「関所通行手形」によると慶応3年ころと推測されるそうです。
 現在の住職星野 直氏の話では、昔は修験者の修行の一つに「火渡りの業」と云うのがあり、武尊山のふもと(旧オリンピアスキー場付近)で「火渡りの業」が行なわれたとの先人からの伝承がありますが書物による記録は法称寺にも無いそうです。近年では「花の駅、花咲の湯」で地域の観光イベントとして、一時期に行なわれた事があるそうです。
 法称寺のご神体は「不動明王」で昔から、(家内安全の祈願、こどもの夜鳴き除け、病除け、神事)等を業として行って来たそうで、特に先代星野文雄氏の頃までは、「春祈祷や祭りの神事、地鎮祭」などが多くあり、春には各家々では(家内安全や病除け)を願って「春祈祷」をする家が多かったと云う。星野 直住職は、平成元年に先代星野文雄氏の死去に伴い第20代目の住職を継承したので、今後「神事」等を続けるため「神官」の資格取得を目指して、知人の紹介で京都の神社に約5年ほど週末ごとに勉強に通い「神官」の資格を取得したそうです。
 また、住職に就任後は毎年の業として、前武尊の山頂に祭ってある「日本武尊命」を詣でたり、昔は修行道として使われた道も、現在では登山道として多くの登山者に利用されている道の刈払い作業や修復作業に地域の人と一緒に参加したりなどで4~5回ほど登っているそうです。
現在のように、社会の多用化や生活環境の変化とともに神仏への「信仰心」が薄れていますが、先祖から受け継がれたこの仕事は大事に続けていきたいと星野 直住職は話をしてくれました。
 ご協力を頂まして誠に有難う御座いました。

 

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