聞いて集めた昔の話 第30回

須賀川・菅沼両部落の神社と「星野塚」

(平成19年1月)

 今月は須賀川、菅沼両部落の神社と「星野塚」についてのお話です。
 両部落の神社は須賀川地内の国道120号線から、細い坂道を約300mほどの登った菅沼字阿曽受(あぞうけ)地内の平なところに祀ってありました。また、菅沼からは大竹文夫氏の旧宅前から西の方角へおよそ600m位下ったところにあり、現在の道は小型自動車が通れるほどに拡幅されてコンクリート舗装になっておりました。
 この神社が合祀された理由については、「古文書」などで伝えられていますが、承応二年(西暦1653年)四代将軍徳川家綱のころに菅沼村より分村し、12軒で須賀川村が発足したという。神社の合祀は元禄十四年(1701年)に両村の氏子全員(菅沼21名、須賀川19名)が署名捺印して祀られたと記録が残っているそうです。
 神社には、神殿に向かって左側に諏訪神社、右側に日光大権現が祀ってあり、諏訪様には木を彫刻した「お姿」が日光様は最初は石に刻まれてあったが、明治19年に調製されたと云うお姿がありました。また、神殿に向かって右側の一段高いところに間口3間、奥行き1.5間の社があり、中には「氷川神社、石宮(淡路様)、神明神社」が祀ってありました。
 昔はこの神社には、重病人を抱えた家族や親類はお百度参りをして、必死な思いで祈りをした。出征兵士の壮行会には村中の人達がここまで送って来て、出征兵士の「武運長久」を祈ったそうです。また、夏の大麦、小麦などの収穫どきに長雨が降り続くと早く止む様にと「天気祭り」に神社の付近の木の枝を切り落として燃やし、この煙と祈りが天の神に届くように祈ったそうです。
 この神社の主な祭礼は、4月15日(春祭り)には「今年の豊作祈願と村中の安全祈願」、8月31日(夏祭り)「台風などの被害がないように、また、流行病などないように祈り」、10月31日(秋祭り)「無事に収穫の秋を迎えられたお礼と村の安泰を祈願」して賑やかに行われて来たが、現在では部落役員が神社にお神酒を上げて来て集会所でお祭りをするようになったそうです。
 神社の裏から北の斜面に街道の跡が残っており、雑木が茂っておりましたが、これは昔の旧道(合津、日光への街道)で坂を登りあげたところに、片品村ではめじらしい「単体道祖神」があり、その側面には右側に「おがわ道」と左側には「つちいで道」と記されていました。道祖神と道を挟んだ西側の畑の脇に「星野塚」と言われる小さな塚があり、塚の上には六地蔵や塔、石仏などが立てられておりました。その中の高さ五尺程の塔が「星野道乾」の墓石と伝えられており、その墓石には延宝六年(西暦1678年)8月吉日、「奉読諸大乗妙典大宝塔」とありました。道乾は天正19年(西暦1591年)の「当郷旧家名」には「菅沼村 星野道乾」とあり、戦国時代の末には菅沼村の郷士として、当時 太閤検地が行われて六尺三寸竿で全国の耕地を測量して石高を算出して、その中に「菅沼村 四十三石五斗九合」と出ているそうです。取材に協力を頂いた大竹 久さんは時代の変化に伴い、部落の生い立ちや昔の行事が忘れられるのが寂しいと話をしてくれました。

 

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