「古仲城址」(7月号)

(平成18年7月号)

今月は「古仲城址」についてのおはなしです。
 古仲城址は古仲部落から大園寺の前を奥に約2km位行った付近に星野睦治さんの炭窯があり、その場所から東方向に200m程入った片品川を望む断崖の一角に赤松や楢などの林があり、古仲城址と呼ばれている台地がありました。広さは目測で東西約80m、南北50m位の広い場所で台地から見下ろす東南方面には現在建設中の新しい国道401号線が見えてました。 その台地は三方向を片品川に囲まれており東端の一段高い場所の松の木の根本には小さな石宮があり、石宮の近くには長方形の切石が2個有りましたが何に使われたかは不明でした。
 石宮のところは南側は越本から鎌田方面まで、北側は戸倉方面が見渡せる場所で戦国時代は伝達手段として「狼煙」(のろし)を上げる場所として使われたそうです。また、西側には戦いのときに敵の侵入を防ぐために造ったと思われる堀が二ツあったと伝えられていますが、現在でも堀の形跡が一ケ所は残っておりました。
 古仲城は尾瀬氏が古仲に氏寺(現在の大園寺の前身)を建てた大同2年(西暦807年)頃から尾瀬氏の居城となっており、尾瀬氏の一族は正中2年(西暦1325年)に尾瀬兵衛が北条範貞に滅ぼされ、ついに尾瀬氏は絶えたと伝承されているそうです。
 別の伝承では、仁安2年(西暦1167年ころ)に高倉宮以仁王(もちひとお)(後白河天皇の第二子)が平家討伐の陰謀を計画したことが発覚し、六条天皇に都を追われて会津に向かう途中に家臣の尾瀬中納言藤原頼実と源頼政とともに古仲城を根拠地にしたとも伝えられている。
 永禄12年(西暦1569年)には沼田万鬼斉がわが子弥七郎を殺害し、弥七郎の家臣に弔い合戦を起こされて、戦いながら会津へ向かう折に逗留したと云う。沼田氏が滅亡後は沼田領内は上杉謙信の領地となり、上杉謙信の家臣小中彦兵衛尉(こなかひこべいのじょう)と云う武将の居城とも伝えられる。
 この取材をしていて感じたことは、いろいろな歴史を刻んだ古仲城址の話も後世に伝承されづに人々の記憶から薄れて行き、いつかは忘れられてしまうのかと思いました。
 今回の取材では現地への案内をして頂いた星野 律さん、話をして頂いた大久保勝美先生には大変お世話になり有難う御座いました。

 


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