保多賀御前(ほたかごぜん)の絵額と細工屋の御前宮

(平成18年2月号)

今月は新井の武尊神社にある保多賀御前(ほたかごぜん)の絵額と細工屋の御前宮(おまえのみや、越本では「ごぜんぐう」と云う)についてのおはなしです。
 新井部落の山根にある武尊神社の中に畳1丈程の大きさの保多賀御前の「絵額」が掲げてありました。絵は都を遠く離れた女性が都を偲び、菊の葉に文字を書き谷川に流している絵柄で、石渕と云う画家によって後年に描かれたものと思われて仔細は不明と云う。(地元の人は菊姫の絵額と呼んでいるそうです。)康平5年(西暦1062年)東北の安倍一族、尾瀬次郎定連(さだつら)は京都に登り、朝廷に仕えていたが、ある時、朝廷の勅勘(ちょっかん)を蒙り、都を離れて故郷へ向かう途中に官司(かんし)に追われて、この地片品まで来たところで主従50騎が戦死したと云う。(片品村史にはその様に伝えられていました。) 定連の妻「保多賀御前」は朝廷の流れをくむ身分の高い人の娘だったが夫(定連)と共に都を出て、かろうじて戦いを逃れて来たが気候風土の違いと長旅の心労から病となり、都を想いながらこの地でみまかったと伝えられています。
 この話は越本にもあり、ほぼ同様だが、尾瀬三郎となって伝承されており、越本字細工屋の武尊神社のとなりには、この地でみまかった保多賀御前を土地の人があわれに思って祭ったのが「御前宮」があり、中には約25cm位の女性の座像のご神体として奉ってあました。この神社の祭礼は特別になく、毎年11月3日の「にぎりっくら」の祭りに一緒にお参りをして供養をしているそうです。
 また、新井の武尊神社の右側に「無名縫塔」(むめいほうとう)とよぶ三基の印縫塔が奉られていました。村人の伝承によれば「高倉宮以仁王」(たかくらのみやもちひとおう)が奥羽地方の出羽の国(今の山形県)へ向かう途中に、この地で亡くなったが身分を明かさないために墓石も無名にしたとも云われており、「無名縫塔」の建立は新井部落に伝わる書物によれば、文治元年(西暦1185年)と伝えられているそうです。また、頭の丸い石塔はお坊さんのお墓とも云う伝承もあり二つ伝説があるそうです。以前は現在の新井集会場のところにあったものを神社の脇に移したそうで、毎年春と秋の彼岸の中日には村中で祭りをして念仏を申して供養をしているそうです。
 このほかに新井部落の北のはづれの畑の中(故梅澤関次郎宅前)には「高倉宮の腰掛石」と云われている「自然石」があり、「高倉宮」がこの地を訪れた際にこの石に腰を掛けたと伝えられており、高貴な方が腰を掛けた石に「足を上げたり、その石の下を掘ると罰があたる」と言い伝えがあり、「腰掛け石」のことは現在まで伝承と保存はされて来たが、今後も若い世代の人達に伝承されてほしいと梅澤兼次さんは貴重な話をしてくれました。 この取材につきましては梅澤兼次さんと大久保勝巳先生に大変ご協力を頂きまして誠に有難う御座いました。

 


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