聞いて集めた昔の話 第6回

鎌田に祭られている「笠科神社」

 (平成16年11月)

 現在の笠科神社は平成2年より平成5年にかけて寄居山周辺の整備に伴い新築されていますが、発祥は明治15年9月29日に上野国利根郡東小川村字大阪2855番地(現在の中井部落にある龍滄院の北東部の中段付近と云われている。)に正遷宮(せいせんぐう)諏訪神社(祭主、権少講宮沢清樹)として、戸長、千明森蔵(千明本宅の人)ほか18名によって鎮座される。大工頭梁は星野甚五郎正光がつとめる。明治40年11月9日合併許可を受けて「村社10社、無格社17社、末社111社、12部落」を合わせて同時に村社笠科神社と改称し、明治41年4月19日 発幹千明萬吉他5人、東小川区長須藤竹松(現在戸主は須藤正大氏)、12部落各3人の代表者により奉合祭を行う。
 大正6年12月19日に神社庁の許可をうけて、東小川字大阪2855番地より鎌田4078番地5へ大正7年12月20日に本殿移転、拝殿新築落成し、この時境内694坪敷地、氏子741戸であった。その後昭和6年8月21日、明治39年勅令第96号により、神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)、供進神社として指定される。拝殿等老朽に伴い、片品村の寄居山環境整備により鎌田4078番地111へ新築平成5年に落成し、正遷座大祭日 、平成5年5月2日。社殿、(木造銅板葺平屋建)95.40㎡(約28.9坪)、御輿庫、19.87㎡(6.02坪)、境内敷地、766.94㎡(293坪)、となる。 また、八坂信仰は大正8年12月20日、笠科神社が村社として発展するにつき東小川にあった片品神社を合祀(ごうし)したことから始まり、その時世良田の八坂神社から片品神社に譲渡されていた御輿も一緒に移されて、以後「天王様」といっているそうです。
 この神輿も古いもので現在は残念ながら改修されて飾り神輿となっているが元は白木作りで四方鳥居を備えた飾り気のない質素なもので、太田市細谷にある冠稲荷神社末社八坂神社に譲渡されている神輿と同じであったことがうかがえるそうです。
現在では、昭和56年に世良田の八坂神社から譲渡された神輿を元に新しい飾り神輿が作られたり、また 譲られた神輿も昭和50年7月に飾り神輿に改修されて、沼田祭りにも担ぎだされるはど祇園信仰は盛んになったそうです。このように世良田の八坂神社から当地に譲られた神輿は明治以来鎌田区を始め地域住民の厚い崇敬(すうけい)を受けている。
 宮司については、明治41年4月19日奉合祭大山祇之命(おおやまぎのみこと、山の神様)外36、御鎮座のときの神官は、村社笠科神社神官古馬牧村 高橋角太郎藤原好爵とありその後は高橋貞作であったが、昭和30年10月20日死亡により沼田市 小林倉之丞これを継いだ。昭和32年12月18日次のように神社庁の発令により、大国神社宮司高橋五八が片品村笠科神社宮司に任じられて、昭和55年に高橋五八の死亡により現在大国神社宮司高橋建雄(利根村大字高戸谷)が神社庁より笠科神社宮司に任じられている。
 須藤嘉佐武氏等の発議により紀元2600年を記念して、奉祝記念俳句55首が主催武尊吟社同人、小林正風、星野尚二、角田文三、大竹真一、大竹喜好等によって奉納されている。当時 昭和15年頃の世相背景に一億一心臣道実践の一字以上を読み込んだ55首については、現在薄くなって判読し難いものもあるが笠科神社にとっては歴史的にも文化的にも大変貴重なものだと現在の神社総代長の星野幸市さんは話してくれました。

 

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